一回性的想像力は生まれ変わったと思う~ライフシフト時代が現実と虚構の世界を超越する~
もし。あのときああしていたら。
後悔:(もし~していれば:仮定法過去)
この選択をしたら、もう他の選択はできない。
結婚、仕事。これらは一度選択したら次はそう簡単には変更はできない。
もしくは、一度選択して過ごした時間は返ってこない。
そんなことを繰り返しながら、できたことを大切にして、一生を過ごしていく。
そしてその偶然でしかない一回性に奇跡を感じ、人は幸せになれるのだと思っていた。
ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。
直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。
その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。
出典:クォンタムファミリーズ:東浩紀著
村上春樹の35歳問題。この話は明らかに、人は一回しか生きることができない人生の一回性という自由の制約下で成り立っています。
しかし、橘玲氏が提唱する、三つの資本と自由になれる条件をこの式と置き換えたときに、どう考えられるでしょうか。
金融資本は金融商品やフィンテックの台頭による不労所得の増加、限界費用ゼロによる安価で高品質な商品の充実により、労働市場からは早期離脱が可能になりつつあります。
社会資本はSNSによるコミュニケーションコストの緩和で、人間関係も充実し、嫌な人間関係は容易にシャットアウトでき、ストレスも下がってきていると感じます。
人的資本においては、スキルをそこまで身につけなくてもITやマニュアルの充実により誰でも出来るような仕事や負担の低下が期待できます。
そうしたときに、出来なかったことは、セカンドキャリアで挽回することができるかもしれません。
ある資本で目標まで早期達成し、できなかったことをセカンドキャリアで実現していく。
一回しか生きることができないという人生観が薄れつつあり、
若いときにしかできないと思っていたことをセカンドキャリアにおいて、別の形で実現する。
新しい世界が待っている気がします。
昔はできなかった「並行世界を超える」ということが何を意味するのか。
それは超えてからの楽しみということにします。